50代から「海外二重生活」に挑戦する日記

日本を出て、もっとゆっくり、幸せに暮らしたい。私たち夫婦は海外と二重生活ができるように、場所を選ばない仕事「コーチ」「不動産」をしながら、日本と海外の二重生活を目指します。

『あなたの特等席は、用意されている』 ~全部、ここに来るために用意されていたこと、の巻。

私のコンプレックスは、転職回数が多いことだった。
以前、先生をしている方に言われたことで、傷ついたことがあった。
「君は耐性がないんじゃない?飽きっぽいだけじゃないの?」

そうなんだろうか。
転職=耐性がない人がやること、だとこの先生はお考えなのだろう。


合う仕事、合わない仕事、たくさんの方との出会い、本との出会いがあって、
今の私が言えることは、

「環境が合わない、は不幸である」

ということだ。

 

例えば「大きな木になる可能性を秘めた種」があるとしよう。
ふかふかの栄養のある土の上に落ちて、
水も日光も十分であったら、この種は、きっと大きな木になるだろう。


でも、コンクリートの上に偶然落ちたら?
日陰の暗い路地に落ちたら?

この種が育つ環境がなかったら?


ずっと、私は小さくなっていたように思う。
私の義姉は、中学生の時に「医者になる」と決め、
一直線に進み、医学博士になった方だ。

そういう人と話すと、とても小さく感じてしまう自分がいた。
私は、自分が何をしたいか、本当に分からなかったし、
「世間が良いと思っている」銀行に入ったけど、体質の古さが合わなくて体を壊して辞めたり。
本当に、合わなかった。


義姉に比べたら、私は、なんてフラフラした人間なんだろうか。


でも、やっとわかったのは、私はアイディアはどうやら沢山持っている人間である、
ということだ。

昨日ご紹介したツール「スタンドアウト(StandOut)」をやってみて気づいた。

『スタートアップ(新規事業)に最適な人間』

なのだった。
大きな遠回りをして、紆余曲折を経て、やっとわかった。

そういえば、、と振り返る。
・小学生の時に、学校の運動会の種目を提案して採用された
・高校生の時に、市民図書館にクーラーがないので勉強に支障が出る、と「市長への手紙」に投函し、市長から手紙をもらった
・今までの人生で一番楽しかったことは、高校の文化祭でアイディア出しをした時

 

私が合わなくて辞めた会社は、
・非常に古い、固い、銀行
・オーナー企業で、全く社員の意見は不要なカルチャーの会社

だった。
意見は、アイディアは不要だった。
むしろ、マイナスになることもあった。


私の持ち味は生かされないカルチャーだったから合わなかった、と改めて振り返る。


前の会社を辞める時に、
もう私はこの会社でやることはない、って確信して辞めるのに、
それでも、私には大きな挫折観が残った。


前にあの先生に言われた「あなたには耐性がないのでは?」が、時々胸に去来する。
自分の傷に、塩が塗り込まれていく。

でも、私の救いになったのは、
『あなたには、特等席が用意されている』

という言葉だった。

きっと、私にも特等席があるはず。
これに何度励まされたか。

私の特等席は、全く居心地の悪い椅子や、そもそも席が用意されていないことを経験しないと、
分からなかったのだな。


今、私はコロナ禍で影響を受けた企業、飲食店の経営再建のお手伝いをさせて頂いている。
アイディアがいっぱい出るし、遣り甲斐も感じる。

ここは、私が生かされる特等席なのかもしれない。