50代から「海外二重生活」に挑戦する日記

日本を出て、もっとゆっくり、幸せに暮らしたい。私たち夫婦は海外と二重生活ができるように、場所を選ばない仕事「コーチ」「不動産」をしながら、日本と海外の二重生活を目指します。

思えば、ラガーマンのようだった、の巻。

※昨年のラグビーネタ、再投稿。
私はボールではなく、書類を持って走っていた。
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思えば、ラガーマンのようだった、の巻。
おや?私はラガーマンのようだったのではないか。
9月までバイヤーをしていて、
10月から新しい部署で全く仕事が変わった。
最初はイヤだったが、私には休養が必要だった、と気づく。

あの時の自分を客観的に見られるようになった。
まるでラガーマンのようではないか。

男社会であり、
アメフトのように「防具がない」
(誰も守ってくれない)点でも、
バイヤーの立場を物語っており、
やはりラグビーだと思う。

書類を持って、イタリアまで(敵の陣地)攻め込み、
トライ(契約をまとめる)までやっていた。

 

書類をボールのように脇に抱え、
腕を陸上部走りのように「直角」に曲げ、
さまざまなお誘いを振り払うように走り、
さまざまな困難(トラブル、予想外の事故)がタックルしてきて
傷を受けながらも走り続けた。

時には脳震盪を起こしたが、
ヤカンの水をかけられ、すぐに走り出した。
傷を癒す時間などなかった。
毎日、貨物を載せた船は港に到着しているのだから。

私の仕事は、敵地でトライをすること、だと思っていた。

仕事→ストレス解消に水泳に行く→翌日仕事
そんな日々を長く続けた。

こんなに仕事に没頭できたことは感謝している。
財産だ。

でも、そんなに一目散に走り、景色を見ず、
走り続けることのおかしさ、を感じた。

そして、私は気づいたのだ。
「よーし、トライした!!」
ふう。
安堵と、誇らしい思いで、私が来た道を振り返る。

すると、一緒に仕事をしてきたイタリア人は、
おのおの勝手にワイン飲んで宴会をしているではないか。。
18時にサッサと退社していた。

【誰も、一緒に走るつもりなどなかった。
 後ろには誰もいなかった、のだ!!】

ダッシュする必要などなかったのではないか。
こんなの日本人だけ、なのではないか。

なぜ私がイタリア担当になったのか、今なら分かる。
パスタもワインも、ただの副産物で、メインは
生き方を学べ、といわれていたのだ。